ハンカチ越しにキスをした


※はじめに

これはさくらもちが学校の講義で制作した6000字程度の短編小説です。拙作でございますので何卒ご容赦いただけますと幸いです。

 

  

「ハンカチ越しにキスをした」

 

これがそのハンカチです。恥ずかしい話ですが、これが妻に宛てた初めてのプレゼントでした。どうにも自分は優柔不断な性格でして、 なかなか彼女に好いていると表現することに躊躇いを感じていました。今考えればなんて馬鹿馬鹿しい考え方なのだと過去の自分を叩きたくなりますが、彼女に伝えたらきっと口元を隠して大和撫子よろしく優美に笑うのでしょう。あまりにも恥ずかしいものですからこのことは内緒にしておこうと思うのです。最も、彼女も奥手な方でしたが自分のことを良く知っていましたから、初めから分かっていて黙っているだけかもしれませんね。こうしてだらだらと前置きが長くなる自分の悪い癖もとっくの昔に知っていたかもしれません。

彼女との出会いは特別でもなんでもありません。ごく普通の見合いでした。この時代ではやや時代遅れである、こちらとあちらの友人がいつまで経っても決まった人がいない自分たちをなんとかしようとお膳立てを重ねられた結果の出会いでした。かたや朴念仁で華やかさのカケラもない青春時代を過ごした自分と、かたやあまり自身を主張しない受け身すぎる性格の彼女。余り物同士の見合いでしたが、自分のほうがよほど彼女にふさわしくないのではと不甲斐なさにため息をついたものです。あの日の彼女は、くすみのある浅葱色の振袖に身を包んだ彼女は、主張こそ弱いものの、自分が赤や黄色の派手すぎる色合いを嫌っておりましたから余計に落ち着いた品のある女性だと息を漏らしたものです。相手が自分のような朴念仁で申し訳ないと気分は沈むばかり。しかしそんな自分をよそに彼女との交流は続き、めでたく結婚する運びとなりました。自分の方はともかく、彼女はこのような愛想のない人間と生涯を共にして良いものかと自虐に走ったことは言うまでもありません。

 

 

「隆宣さん。朝ごはんが出来ました。」

「ありがとうございます。そこに置いておいてください。」

ゆらり、と白い湯気が立ち上る朝餉を前に新聞を読み耽る。仕事柄、時事には目を通していくべきであるが朝から穏やかに過ごせる時間が以前に比べて減ってしまった。と言うのも、結婚後二人で都心からやや離れた場所に引っ越したからである。自分も彼女も他者との関わりが元来希薄であるが故の引っ越しであり、出勤時間を対価に近所付き合いをそこまで気にしない町に住むのは気が楽で良い。

新聞を畳において茶碗に持ち替える。少しばかり冷めてしまった味噌汁に口をつけ静かに啜った。以前は共に食べていたが引っ越しの影響でそれも無くなってしまった。自分は彼女の何気ない話を聞くのが嫌いでなかったが、気を遣わないようにしてか食べる時間も場所も別々になってしまっている。

「ご馳走様でした。」

一人しかいない場所に礼を述べる

「行ってきます。」

「行ってらっしゃいませ。」

結婚して早一年、何一つ変わらない日々を過ごしている。朝食を食べ仕事に赴き、定時を過ぎてから帰宅し夕食を食べて寝る。休みの日には本を読んで過ごした。

「なぁ、それって結婚前となんら変わってなくね?」

「はい。それが何か?」

「だから!それって奥さんもらっても意味なかったんじゃないのって話!休みの日には湖畔でデートしたり喫茶に行ったり、色々あるだろ!?」

「妻からは何も言ってきませんので、必要ないのかと。」

「分かってねーなぁ...」

友人の史弥から嫌悪と同情溢れる眼差しが飛ぶ。いつも他人に対して同じような反応をさせてしまうがそれでも去らずに残ってくれている数少ない友人である。物好きと言っていいかもしれない。結婚するなり毎日のように話を聞かせろ惚気を聞かせろと、今までの彼の愚痴は一体どこへ行ったのやら。

「奥さんがお前になんも言わないのは、そりゃお前に遠慮してるからだろ。今どき専業主婦は母数が少ない分わからないことだらけで困ってるだろうに。」

「今でもどうして自分なんかを選んでくれたのかがよく分かりません。」

「そう言うお前はなんで結婚するの決めたんだ?」

その問いに私は答えられなかった。見合いであちらが拒まなかったからという打算的な理由もあった分、彼の納得いく解答が出せるとは思えなかったから。しかしそれ以上に彼女のことを話すことに恥ずかしさを感じてしまうことに対して、少しバツが悪かったからであった。

 

「ただいま戻りました。」

「お帰りなさい。ちょうど夕ご飯ができたのでどうぞ。」

何も変わらぬ態度でジャケットを受け取る彼女になぜだか今日は少し不思議に思った。側から見れば亭主関白となんら変わらぬそれに納得しているのか、昼時の会話のせいもあってかその上に少しばかりの緊張が芽生えた。小学生のころクラスメートに一言送りましょうという授業で、果たしてどこまで踏み込んで良いのか探るような、そんな感覚だ

「今日は何をしていたのですか?」

それはふと口をついて出た言葉だった。部屋に向かうまでの間に会話などしたことがなかったから彼女はもちろん自分ですらそれに驚いていた。いつも歩く道に小さな段差ができたようなかすかな引っ掛かり。けれどそれに驚きこそすれ不快感がなかったのは自分自身が予測だにしなかったことだった。

「すみません。なんでもありませんので。」

次いで迫ってきたのは後悔でも焦りでもなく、こそばゆい羞恥心だった。くぐもって聞こえたであろう自分の声にさらにいたたまれぬ思いが積もる。

「今日は...編み物をしていました。もうすぐ肌寒くなるので何か防寒になるものを、と。毛糸を買い足してしまったのですが……」

返ってきた声はか細いが芯のある声だった。そうだ、普段は業務的なことしか話していなかったが、元々彼女は話そうと努力してくれる人であった。思えばいつも会話を終わらせていたのは私の方であり、日常からずれる行為を行わずにいたのは紛れもない自分自身だった。

今日は葉物が安かったので鍋にしてみました。と彼女が答える。家から店まで少し距離があり、白菜や大根などの野菜類を抱えて歩くことは女であれば大変なことであろうに、今まで文句の一つも言ったことがない。何も言わないのは彼女なりの優しさか、それとも単に遠慮しているだけなのか。頭の中で友人の言葉が反芻する。

お前はどうして彼女との結婚を決めたんだ。

その答えを言うよりも先に彼女の答えが聞きたいと思った。なぜ、どうして。聞きたいことは多くあり、伝えるべき言葉、伝えねばならない言葉も多くある。

「そうですか」

しかし、口をついて出たのは実につまらない言葉だった。そうしてまた、彼女が踏み込んだ足元に壁を生やして塞いでしまった。

後ろを振り返る度胸もなく、後悔を残したまま歩を進める。気の利いた言葉ひとつ吐けない自分自身が今日は一層情けなく思えた。

 

翌朝、昨日の失態を気にせずにはいられず、彼女に投げかける言葉も見つからないまま家を出た。彼女はなんてことない態度のままだった がそれが余計に自分の胸に引っかかりを生んだ。こんなに無愛想な態度で、言葉足らずの言動ばかり、彼女に新婚らしいこともひとつもさせることなく日々を浪費させている。自分の無能さに頭が痛くなるばかりだった。

「そういう時はお前、贈り物だよ。記念日とか誕生日とかに何か贈るだろ?」

「そういうものなのですか。」

「ものなのですか、ってお前まさか贈り物のひとつもしたことないのか?」

史弥が三万円はしたと言いふらしてまわっていた焦げ茶の細ぶち眼鏡を粗雑に顔から引っこ抜いてこちらを凝視してくる。その顔は酷い困惑と少々の侮蔑の表情に満ちていた。

「生活に不自由ない程度の金は入れています。」

「そういうことじゃなくて、それ以外でだよ。自分を思って選んでくれたってだけで嬉しいもんなんだから。あと、日頃の感謝は伝えてるか?どうせお前のことなんだから何も言っていないんだろうけど。」

彼はバツ2だが今までの奥さんを全員溺愛していたと社内で有名だ。そんな彼の発言はあまりにも的をついていて、まんまと図星を突かれて黙り込んだ。それは昨日の自分そのものを言い表していたからだった。

「帰りに店でなんか買って帰れよ。」

そう言われたはいいものの何も思い浮かばない。贈り物と聞いて明確な物が浮かんでこないあたり私が彼女に対して何も知らないことへの証明そのものだった。

退社後すぐに近くの店に足を運んだ。店内は服や小物、香水などが置かれていたが目ぼしい物が見つからない。それ以前に彼女の好みのものが今ひとつわからない。このような思いで選ぶのも申し訳ないと思いそそくさと場を後にする。店を出ればひときわ冷たい風が頬を撫ぜた。辺りはちらほらと木々が紅葉を見せて鮮やかに茂っている。

そういえば結婚式を挙げたのも秋頃だった。白無垢の彼女はいつもより大人びて見え、紅をさした口元が鮮やかだったことがありありと思い出せる。

あの日、自分が緊張からハンカチを落としてしまったのを見て彼女がわずかに綻んだことがあった。こんな大きな男の失敗するところなんて見て一体何が面白かったのだろう

しかし、あの彼女の姿は今まで見てきた中でいっとう愛らしかった。初対面の時の笑顔とも、日頃見せるものとも違う、予想外のことが起こって崩れた自然体の微笑みがとても印象的だったのだ。

そうだ、自分はその時彼女と結婚してよかったと思ったのだ。彼女の笑顔を守りたいと思い、同時にこの笑みを引き出すのは自分でありたいと願った。

しかし今はどうだろうか、彼女の笑顔を自分は果たして守れていただろうか。否、そうでないことは明白だ。対話を行わなかったのは自分であり、守ると誓った約束を反故にしたのもまた自分だ。今更何をしたところで変わらないかもしれない。

いいや違う、これは逃げだ。自分は怖いのだ。ようやく気づいた彼女への想いが届かなかったら、もう遅かったらと不安が治まらないのだ。 けれどそれ以上に今すぐにでも彼女に触れたくてたまらなかった。艶のある髪を手で漉いて、陶器のような色白の肌に手を添えたい。寒空の中共に手を繋いで歩き、寒さ以外でその肌を赤く染め上げたい。

「もう一度あの笑顔が見たい。」

口からこぼれ出た言葉は紛れもなく本心からだった。息を吐くように出たそれを言葉として認識した瞬間に、欠けていた何かが埋まったような充実感に支配された。

駆け足で店へ戻り、狂ったように品物を値踏みする。あの日落としたハンカチの代わりに彼女がくれたハンカチは、ひっそりと自分の文机にしまってある。

そうだ、彼女と初めて会った時に着ていた菊の紋様が入ったハンカチを贈ろう。これを見た彼女はどんな反応を見せてくれるだろうか。恥ずかしそうに俯きながらも、愛おしそうに見つめてくれるだろうか。あの時のようですね、と綻んでくれるだろうか。なんでもいい、どんな反応だったとしても変わらず好いているということを伝えよう。随分と待たせてしまったと謝りながら、それでも彼女が許してくれるなら、それだけで自分は幸せ者だろう。

勇み足で帰った、一刻も早く伝えようと走った。息が切れ、短い呼吸が続きながらも走り続けた。そうしてやっと帰ってこれた頃には辺りは暗くなっていて、玄関を開けて彼女の元へ向かった。

彼女がいた。

額から顔全体を隠すように布を覆い被せられた 彼女がいた。

 

先程までは意識があったんです。

医者のような男が静かに語りだした。いつもより帰りが遅い自分を心配して玄関先から職場の方向を向いていたらしい。一気に肌寒くなった今日の日没後の気温はさぞ低かったことだろう。いつ帰ってくるかも分からない私をずっと待ち続け、やがて寒さで意識がはっきりしなくなった彼女を未成年の少年2人が車で轢いたそうだ。無免許だった彼らは咄嗟に逃げる判断をしたが事故の音で飛んできた近隣の住民に取り押さえられた。事の顛末はそれらしい。

芽の出ない三文小説家が書いた話ですと言われた方がまだ納得がいったと思う。それほどに嘘のような顛末で、笑えない冗談であって欲しかった。だって今すぐにでも動き出しそうにそこにいるではないか、まるで死んだように寝ているだけではないか。

「ほら、温かいじゃないですか。寝ているだけですよ。」

「旦那さん、それはあなたが外に居たからです。」

「温かいんです!」

嘘だった。今先ほどまで息が切れそうなくらい走って自身の体温は上昇しているはずだった。けれど認めたくなかったのだ。自分より室内にいたはずの彼女の方が冷たく感じた。などと、理性が認めても自分自身がそれを拒否したかった。

いつまでも認めない私に医者が匙を投げた。「失礼」とだけ言い放ちその場から消え去った。この医者も全力で彼女を助けようと必死だったはずなのに、また私は言葉を拾おうとしない元の愚かな自分のままだった。 なぜ、なぜ今なのだろう。なぜ何かを果たせそうな時に一番欲しいものがこの手からこぼれていくのだろう。温かいあなたに触れることも叶わず、共に出かけることも叶わない。もうどうしようもない、その事実がどれだけ私の首を絞めたことか。

それ以上に、私の言葉がもう届かないのだと、あれほど伝えたい言葉があったのに、謝りたいことがあったのに、赦しを乞うことすら許されなかった。今際の一言さえ聞けやしなかった。その事実が何より心の臓を抉った。

寝ている妻のすぐ横には編みかけの手袋があった。既に作り終えている片手の大きさから誰のために作ったものであるのかは明白だ。

ろくに世間話もせず、仕事が忙しいからと夫婦らしいことも何もせず、羞恥で愛の言葉ひとつさえ言えなかった。

何故お前は彼女と結婚したのか。その答えは今なら簡単明瞭だ。

彼女を愛しているから。ずっと隣に居たかったから。彼女の『特別』でありたかったから。

結局、自分は彼女を死なせたという『特別』になってしまったが。

「ただいま戻りました。遅くなり、申し訳ありません。」

それには帰りが遅くなったこと以外も詰め込まれた謝罪だった。薄れゆく意識の中で彼女は何を思っていたのだろう。私のことを考えていてくれていただろうか。

「本当に。遅くなり申し訳ありません。」

こんな簡単なことも言えないまま、あなたを一人冷たい世界に置いていって申し訳ありません。口に出すのが臆病な私を何も言わず支えてくださったあなたを置いていって申し訳ありません。

胸に顰めていたそれを取り出す。包装されたそれを丁寧に剥がして、彼女に覆いかぶさったそれと入れ替える。純白の菊の紋様が美しい。

淡い思い出が脳裏に蘇り、焼き付けるようにそれを受け入れた

最後まで、あなたと目も合わせられない私を許してください。

「あなたをいっとう愛しております。今までも、これからも。」

私は、ハンカチ越しにキスをした

 

 

 

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台本としての使用は考えておりませんが、もし上演希望があればご連絡ください。規約は台本と同じです。

 

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花より桜餅

さくらもちの台本置き場 未完結ものアリ〼

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