夏の逃避行【0:0:2】

【あらすじ】

「昨日人を殺したんだ。」

とある夏の日、渚が吐露した衝撃の事実。二人だけの短い旅路、明かされる秘密、衝撃の結末…。彼らの逃避行の行く先は!?

 

出演人数:2人(性別不問2)

 

時間:(推定)30~40分

 

配役

◆薫(かおる): 【性別不問】渚のことが好き

◆渚(なぎさ): 【性別不問】薫のことが好き


※台本上の関係で薫を男、渚を女のように描いておりますが、性別不問ですので一人称や口調、語尾変化など、自由に変更していただいて構いません。

 

 

***

 

0:※(N)はナレーション

薫:(N)あの日、渚は急に僕の家にやってきた。梅雨時の、べったりとした暑さが印象的な日だった。

薫:(N)傘をさしてこなかったのか、ずぶ濡れのままで押しかけてきた渚はいつもと様子がおかしくて、とても心配したのを覚えている。

 

渚:人を殺したの。

 

薫:(N)震える声で渚は言った。その言葉が、僕達の短い非日常の始まりだったなんて…この時は思いもしなかった。

薫:(N)これは僕と渚の、2人だけの逃避行の物語

 

 

***

 

薫:渚…?今なんて…

 

渚:だから、人を殺したの…

 

薫:冗談やめてよ。怪談話がしたいんならまた今度泊まりにでも来て…

 

渚:冗談じゃない!冗談で、こんなこと言わないよ

 

薫:じゃあほんとに…?

 

渚:薫も知ってるでしょ。私が去年の9月にいじめられてたこと。あの時はクラスに薫が居てくれたから収まったけど…、クラスが変わって、薫と離れ離れになってからまた始まった…。

渚:最初は些細(ささい)なことだったんだけど、どんどんエスカレートして…

 

薫:殺したのは誰?

 

渚:いじめの中心にいた私の隣の席の人。放課後に呼び出されて、また殴られるって思って、ヤダって肩を押した。そしたら彼、階段から落ちて…打ちどころが悪かったみたいで…

 

薫:警察には?

 

渚:言ってない。言えるわけない。

渚:ねぇ薫。私ね、遠いところまで逃げようと思うの。逃げて、それで自殺しようと思う。誰にも見られずに、誰にも知られずに、1人で。

渚:最後にこんな話聞かせちゃってごめん。迷惑いっぱいかけてごめん。仲良くしてくれてありがとう。話はそれだけ。じゃあ、私行くね。

 

薫:……待って!僕も連れて行って。ううん、僕もついていく。

 

渚:薫…?

 

薫:そんな顔の渚を1人にさせられない。渚がどこかに行くなら僕もついて行くし、渚が死ぬなら僕も一緒に死ぬよ。

 

渚:なんで…なんでそんな馬鹿なこと言うの!薫は生きなきゃいけない人で、私なんかよりずっと生きるのにふさわしい人で…!

 

薫:それ以上僕の好きな人を貶(けな)すのは止めて。

 

渚:え…??

 

薫:2人で逃げよう。1人よりずっと楽しいよ。渚だって寂しいって思ってたんじゃない?

 

渚:でも…

 

薫:でもは禁止。ほら準備するよ!

 

渚:え?ちょっ!!!?

 

薫:(N)嬉しかった。渚の大切な秘密を僕に、僕だけに伝えてくれたことが。

薫:(N)だから、彼女のためなら僕はなんだってする。それがたとえ、犯罪まがいの事だったとしても。

 

薫:始発の電車に乗ろう。今晩は僕の家に泊まるって渚の親に言っとく。僕の両親は明後日まで帰ってこないしちょうどいい。

 

渚:薫

 

薫:何が必要?着替えとかいる?とりあえずお金と携帯と…

 

渚:薫!

 

薫:なに?

 

渚:どうして…私のためにここまでしてくれるの?それにさっきの言葉…

 

薫:分からなかった?僕の好きな人が貶(けな)されるのが我慢ならなかった。それがたとえ自虐(じぎゃく)だったとしてもね。

 

渚:それって…

 

薫:僕は渚のことが好きだよ。ずっと前から。気づかなかった?

 

渚:わたしのことが…?

 

薫:だから連れて行ってよ。好きな人が死のうとしてるんだ。僕も渚のためになにかさせて。

 

渚:……私も、薫のこと好きだよ。

 

薫:っ、ほんとに?

 

渚:うん。でも言ったら迷惑になるだろうからって今まで言わなかった。

渚:こんなことになるならもっと早く言っておけばよかったな。

 

薫:嬉しい。ありがとう渚。

 

渚:薫、一緒に来てくれる?薫と一緒なら死ぬのだって怖くないや。

 

薫:もちろん。

 

薫:(N)渚と両想いになれた。同行を許してくれた。それだけで僕は今、幸福感に満ちている。

薫:(N)よかった。全部、計画通りだ。

 

 

 

 

 

 

薫:(N)翌日、僕達は始発の電車に飛び乗った。

薫:(N)持ち物はお金の入った財布、携帯ゲーム類、最低限の着替え、そしてナイフ。

薫:(N)自殺用に持ってきたこの刃物は、僕たちを連れ戻しに来る大人たちを退けるためのものでもある。

 

渚:(N)がらんとした電車内は、どこか非日常を感じさせて、雨上がりの涼しい風が肌を撫(な)でる。

渚:(N)無計画で無鉄砲、その場しのぎの逃避行。

渚:(N)でも、お互いの手を強く握りしめるととても安心して、ずっとこのままでいたいと思わせるほどだった。

 

薫:(N)午前9時。僕達は家から数百キロ離れた駅に到着した。開店する店がちらほらと見える。土産屋(みやげや)などは人気なのだろう。朝早くから熱心なことだ。

 

渚:薫。

 

薫:なに?

 

渚:せっかくだからさ、見てかない?お土産。

 

薫:いいじゃん。見るだけじゃなくて買おうよ。駅弁とかあってもいいんじゃない?電車の中で食べれるし。

 

渚:ありがとう。

渚:私修学旅行以外で友達とお土産屋さんに来るのって初めて。なんか楽しいね。

 

薫:時間はまだあるし渚の満足するまで見て周りなよ。

 

薫:(N)熱心に土産物(みやげもの)を見て回る渚はとても楽しそうだ。昨日家に来た時の手の震えも、今は無くなっていて安心した。

 

渚:薫!キーホルダーお揃いで買おう!

 

薫:お揃いで?どれがいいの? 

 

渚:これ!イニシャルついてるやつ!

 

薫:またベタなの選ぶなぁ…

 

渚:お互いのイニシャルのやつを持ってたかったんだけど……あんまり良くなかった?

 

薫:そんなことないよ。じゃあそれぞれ自分のイニシャルを買って、外で交換しよう?

 

渚:ほんと?じゃあ私これ。先お会計してるね。

 

薫:急がなくてもいいよ。そうだ。僕の分のお弁当選んでくれる?

 

渚:任せといて。薫が好きそうなの選んどく。

 

薫:(N)渚が熱心にお弁当を吟味(ぎんみ)している間に、僕は自分の分の土産物(みやげもの)を選んだ。

薫:(N)土産物は土産物でも、冥土(めいど)の土産物。渡す相手は地獄の閻魔大王(えんまだいおう)あたりだろうか。

薫:(N)だって僕は、渚より許されないことをしているから。

 

渚:おまたせ!これ薫の分のお弁当ね。

 

薫:ありがとう。あれ、これ僕が好きなやつじゃん。覚えててくれたんだ。

 

渚:当たり前でしょ。その…好きな人…、なんだから……

 

薫:ふふ、嬉しい。僕も渚のこと好きだよ。

 

渚:……顔赤くなるからやめて

 

薫:いいじゃん伝えさせてよ。ほら、手出して?キーホルダー交換しよう?

 

渚:…うん。

 

薫:(N)僕はKを、渚はNのキーホルダーをそれぞれ交換した。貰ったキーホルダーを、僕は自身の胸ポケットにしまった。

 

薫:これでずっと一緒。

 

渚:うん。たとえ離れても、ずっと一緒!

 

薫:それじゃそろそろ行こっか。もうすぐ電車来るよ。

 

渚:……うん。行こ、薫!

 

薫:(N)僕達はまた電車に乗って、お弁当を食べながらずっと北に向かった。着いた頃には日が沈み始めている。

 

薫:そういえば、泊まるところとか決めてなかったな。

 

渚:ほんとだ。今晩どうしよう……

 

薫:ごめん渚。何も考えてなかった僕の落ち度だ。

 

渚:そんなことないよ!私だって何も考えてなかった。

 

薫:(N)一度は途方(とほう)に暮れた僕達だったが、幸(さいわ)いなことに、近くに無人の神社があった。行ってみると誰も使っていなさそうな山小屋が建っていたので、今日はそこに身を置くことにした。

 

薫:渚こっちに来な。火がついたよ。

 

渚:ありがとう。そうだ、これも一緒に燃やして?

 

薫:これ……

 

薫:(N)渚が持ってきたのは、渚の家族の写真と、今までの日記だった。

 

薫:いいの?

 

渚:もう必要ないもの。捨てるのは忍(しの)びないから。

 

薫:そっか、わかった。

 

薫:(N)写真たちは直ぐに火の餌(えさ)になって燃えていく。それを真っ直ぐに見つめる渚の眼はとても綺麗だった。

 

渚:薫、あのね。

渚:私、本当はずっと怖かった。1人で遠いところに行くのも、1人で死ぬのも。だって寂しいじゃん?だから薫がついてきてくれるって知って、どこかホッとした自分がいるの。

渚:私、薫が居なきゃ何もできてなかった。薫が居なきゃ生きていけない、なにもできないかも。

 

薫:大げさだなぁ。でも、渚が望むなら、僕はいつだって力になる。渚のためなら、僕はなんだってするよ。だから、これからも僕を頼って。

 

渚:ほんとに、薫は王子様みたい。

 

薫:だから大げさだって。ほら、明日もあるんだしもう寝な。

 

渚:うん……薫、ありが、、と……

 

薫:(N)僕の肩で、規則正しい寝息をたてる渚。これ以上ないほど気を許してくれている姿に思わず頬が緩む。

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薫:(N)ああ、やっと、やっと堕(お)ちてくれた。

薫:(N)去年からの計画が、今ようやく完遂(かんすい)した。

 

 

 

 

 

薫:(N)入学式の時から今の今まで、僕はずっと渚に恋焦(こいこ)がれていた。

薫:(N)ふわふわと揺れ動く髪、薄桃色(うすももいろ)の艶(つや)やかな唇。そこから発せられる声は砂糖菓子のように甘く、こちらに向ける笑顔は太陽のように眩(まぶ)しい。

薫:(N)その声を、笑顔を、独り占めしたいと感じるようになるまでに時間はかからなかった。

薫:(N)けれど、渚を欲しいと感じる者は僕だけじゃなかった。

薫:(N)男女共に好かれている渚は、いつか僕以外の人間を選ぶのだろうか。そう考えたらどうしようもなく不安と恐怖に包み込まれた。

薫:(N)僕以外を選ぶだなんて許せない。渚には僕だけを見て欲しい。僕に依存して、僕以外いらないと、僕がいなければ生きていけないようになって欲しい。

薫:(N)歪(ゆが)んだ感情だと自覚はした。けれど、そうでもしないと渚は僕の元から離れていってしまう。そうなったら、きっと僕は生きる意味なんて無くなる。それほどまでに渚を欲していた。

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薫:(N)だから僕はあの日、9月にあの子の机に百合の入った花瓶を置いたんだ。

薫:(N)きっかけに過ぎないけど、それでも大きな一手を投じた。

薫:(N)彼女を、完全に僕に縛り付けるために。

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薫:(N)発信元が僕だと分からないように故意(こい)に噂を流した。彼女がみんなから嫌われるようになる噂を。

薫:(N)信ぴょう性が増すのは、嘘の中に少しの事実を混ぜ込むことだ。そうするだけで、人は簡単に真実だと誤認(ごにん)し感情的になる。感情的になって、今まで仲良くしていた友達をすら攻撃するようになる。

薫:(N)渚の精神が壊れかける一歩手前で、僕が渚を救う。そして、僕しか味方がいないように誘導する。噂なんて当てにならないと言って攻撃を止めさせた。

薫:(N)渚への攻撃は止まった。けれど噂を完全に否定することなんてできるわけが無い。だって、噂の中にちりばめた少しの事実は確かにあるのだから。

薫:(N)疑心暗鬼(ぎしんあんき)になった愚かな者たちは、きっとまた渚へ攻撃を再開する。

薫:(N)タイミングはそう……、僕と渚のクラスが別れた時。

薫:(N)僕という盾(たて)がいなくなった時、彼らはどれだけ渚を追い詰めるのだろう。そして、渚を追い詰めれば追い詰めるほど、渚は僕に依存する。

薫:(N)まさか、渚が同級生を殺すまでいくとは思わなかったけれど、それはそれで都合がいい。そのおかげで、僕はこうして渚と共に過ごすことができている。渚に殺された彼には感謝でしかない。

薫:(N)そして今、僕は渚の"全て"になった。頼れる人は僕しかいなくて、僕がいないと生きていけないようになった。

薫:(N)どうしようもなく高揚感(こうようかん)が湧(わ)いてきて、気をつけておかないと口角がすぐ上がる。にやつきを抑えられない程までに興奮したのは今までにないだろう。 


薫:渚、僕の最愛の人。

 

渚:……ん、かお、る…

 

薫:擦(す)り寄ってくるなんて、僕をどれだけ好きにさせれば気が済むの?

 

薫:(N)渚が望む限り、僕はずっと君の王子様で居続ける。

 

薫:ずっと一緒だよ渚。僕の最愛、僕の唯一の人♡

 

 

 

 

 

 

渚:ん……ふ、ぁあ…!

 

薫:おはよう渚。ちゃんと寝れたみたいでよかった。

 

渚:おはよう…もしかして私ずっと薫にもたれかかって寝てた!?

 

薫:渚軽かったし大丈夫だよ。

 

渚:やっぱりもたれかかってたんじゃん!ごめん薫!

 

薫:大丈夫だって。ほら、大丈夫ならご飯食べて行こう?

 

渚:やっぱり薫は私を甘やかしすぎだよ…

 

薫:ふふ、好きな子なんだから仕方ないじゃん?

 

渚:もう…!

 

薫:(N)僕達は駅前で買ったパンを食べて、また神社の境内(けいだい)に戻った。

 

渚:ねぇ薫。お賽銭(さいせん)ちょっとだけ貰っていこうよ。

 

薫:渚がそんなこと言うなんて珍しい。どうしたの?

 

渚:ううん。なんかね、今の私は人殺しの悪い子だからさ。今更、罪の1つや2つ重ねてもいいかなって。そう考えたら、お賽銭を盗むのってとっても悪いことでしょ?

渚:やってみたくなったの。それに、私を許してくれる人は薫しかいないじゃない?誰か一人でも「いいよ」って言って欲しいなって。

 

薫:そんなの、僕が反対すると思った?

 

渚:ううん、思わない。

 

薫:正解。

 

薫:(N)僕と渚は賽銭箱のお金を抜き取った。人里離れているから金額自体は少なかったけれど、行動自体に意味があるのだから文句もない。

 

渚:じゃあ、また動かなきゃだね薫。

 

薫:そうだね……、っ!!

 

渚:どうしたの?

 

薫:これ、見て。

 

渚:これ…!

 

薫:(N)渚に見せた携帯の画面には、僕達のいた学校で遺体が発見されたこと、昨日から生徒が2人行方不明だという内容のニュースが語られている。

 

渚:バレたってこと!?

 

薫:うん。さすがに警察は僕たちが犯人だって気づいてるっぽい。多分携帯のGPSでこの辺にいることもバレてる。昨日の夜から動いてるだろうし、ここに来るのも時間の問題だ。

 

渚:どうしよう薫!!

 

薫:落ち着いて渚。携帯は捨てていくよ。確かこの先に貨物列車の廃線があったはず。そこをたどっていこう。

 

渚:うん!

 

薫:(N)雑草が生え渡った廃線をかき分けながら、道とは決して言えない道を突き進む。お互いの手を固く握りしめて、僕達は全力で森の奥へと走った。

薫:(N)空気をつたって微(かす)かに聞こえるパトカーのサイレン。すでに近くに来ている。渚と一緒に居れたことが嬉しくて警戒心(けいかいしん)が緩んでいた。まぎれもなく僕のミスだ。僕が、僕が渚を…

 

渚:薫!

 

薫:なっ!!?ぎさ……

 

渚:薫。薫は何も悪くないよ。臆病(おくびょう)な私についてきてくれただけ。違う?

 

薫:…違わない。僕は渚と最後まで一緒にいる。そう、約束したから。

 

渚:でしょ?だから付き合って?私と最期まで。

 

薫:…うん。

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薫:(N)僕達はまた走った。余裕がなかったから足跡で丸わかりだけど、でも少しだけ、あと少しだけ渚と一緒にいさせて欲しい。そう思う気持ちはわがままなんかじゃない。

薫:(N)おいしげった緑の先。その先に眩(まばゆ)い光が漏れている。出口だと勇(いさ)み足で駆け抜けた僕達は、その光景に絶句した。

薫:(N)出た先は、底の見えない深い谷が広がっていた。 

 

渚:橋のロープが切れてる…。これじゃ先に行けない…!

 

薫:(N)呆然(ぼうぜん)とする僕達を警察は、親は待ってやくれない。

薫:(N)叫ぶ警察官、ヒステリックに叫ぶ渚の親、悲劇のヒロインみたいに涙を流す僕の親。「何をしているんだ」と、「馬鹿な真似はやめろ」と、僕たちを諭(さとす)すかのように語りかける声。

薫:(N)彼らのような人間を、きっと人々は『普通』だと、『善』だと言うのだろう。

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薫:(N)うるさい。うるさいうるさい。

薫:(N)知った顔で僕たちを語らないでよ。何も知らないくせに。僕たちはお互いにしか分かり合えないのに。

薫:(N)お前たちが、僕たちに『普通』を唱えないでよ

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渚:…薫。私の言うこと聞いてくれる?

 

薫:もちろん。

 

渚:ありがとう。

 

薫:(N)そう言うと渚はカバンからナイフを出して、刃先(はさき)を僕の首元に突きつけた。

 

渚:動かないで!動いたら薫を切るから!

 

薫:(N)その言葉に、親も警察も動くのを止めた。

薫:(N)生殺与奪(せいさつよだつ)の権利を握られている僕は、うっかり口角が上がらないか心配だった。

薫:(N)渚が僕のために必死に頑張っている。親のためなんかじゃない。他でもない僕だけのために。なんて恍惚(こうこつ)で、酔いしれたくなる心地だろう。

薫:(N)悦(えつ)に浸(ひた)る僕の耳元で渚がささめいた。

 

渚:薫。私のためならなんだってしてくれるんだよね?

 

薫:…っ、もちろん!渚のためなら僕は命だって惜しくない

 

渚:じゃあ、薫。

 

薫:(N)渚は一等愛らしい笑顔を浮かべ、僕を谷底とは反対へと押し出した。

 

渚:……生きて。

 

薫:(N)反動で渚は谷底へ、その身を自ら落としたのを僕は見逃さなかった。

 

薫:渚!!!!!!!!!!

 


 

 

 

 

 

薫:(N)渚の身体が物理法則に従って落下していくのを、僕はただ見ることしか出来なかった。

薫:(N)映画のワンシーンみたいに、その時だけは全てがスローモーションのように遅く感じた。

薫:(N)確かに分かったのは、落ちていく渚が笑っていたことと、握りしめられたナイフに交換したキーホルダーが付いていたことだけだった。

 

薫:渚!!!!!!!

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薫:(N)それからのことは、よく覚えていない。

薫:(N)記憶の片隅(かたすみ)に残っているのは、渚が落ちた場所から警察に連れ去られたことと、渚の死体が行方不明だと学校で告げられたくらいだ。

薫:(N)正直、渚の死体が僕以外の誰かに見られることなんて死んでも嫌だから嬉しいと感じる自分がいるのだけれど、けれど渚が居ない世の中はひどく空虚(くうきょ)で味気ない。

薫:(N)学校に行っても、家に帰っても、家族やクラスメイトはいるのに渚だけが居ない。3ヶ月も経てば皆(みな)渚の事など忘れたかのように日常を取り戻す。

薫:(N)僕はまだ、渚がいない世界を受け入れられていないのに。

薫:(N)年が明けて、梅雨がまた来て、夏が過ぎて9月になって、涼しくなってくしゃみをする。変わらない日常の中に、渚はいない。

薫:(N)けれど、あの時渚は言ったんだ。

渚:(N)「生きて」

薫:(N)この世で最も強い、僕を蝕(むしば)む愛の呪い。

薫:(N)苦しくて、切なくて、けれどとても甘い甘い呪い。

薫:(N)1年経っても、5年経っても、事件が風化(ふうか)して渚のことを世間が忘れても、僕だけは忘れない。

薫:(N)渚が僕に縛られるようにしたように、僕もまた一生渚という存在に縛られ続ける。

薫:(N)それはなんて、甘美(かんび)で妖美(ようび)な鎖(くさり)なのだろう。

薫:(N)僕はまだ、あの夏の日に囚われ続けている。

薫:(N)君という存在に、囚われ続けている。

 

 

花より桜餅

さくらもちの台本置き場 未完結ものアリ〼

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